第58回 登呂遺跡

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皆さん、静岡市内の登呂遺跡に行った事はありますか?私は社会人になってからは行った記憶が無いので、かれこれ40年以上ご無沙汰しております。

先日あるきっかけで、登呂遺跡についてググってみたところ、古い白黒のニュース映像が流れ、”静岡市が誇る観光地、年間65万人の観光客が押し寄せ、、、、”と言ってました。

確かに昭和の時代、登呂遺跡は古代史では一番大事な遺跡として小学校の教科書にも記載がありましたね。

”先日のあるきっかけ”とは、同じく弥生時代の遺跡である”吉野ケ里遺跡”と”原の辻遺跡”です。実は10月にこの2つの遺跡に行きまして、改めて登呂遺跡に興味を持った次第です。

弥生時代と言えば”稲作文化が伝わった時代”と習いましたね?勿論それは間違ってはいないのですが、もっと深い意味があると私は思います。

狩猟採集定住の縄文人からすると、稲作とは今で言えばAIに匹敵するような最先端技術。先進技術を積極的に受け入れた縄文人もいたでしょうが、今の通説としては、”稲作は渡来人によってもたらされ、広がって行った”と言うことだそうです。

弥生時代はBC300年からAD300年と言われていますが、この時代で最も有名なの日本人は誰でしょうか?

それは”卑弥呼”です。言わずと知れた邪馬台国の女王、AD238年に大陸に使者を送った事が、魏志倭人伝に記録されております。魏志倭人伝とはあの有名な三国志の一部で、400年続いた前漢後漢が滅び、魏蜀呉の三国が覇権を争った時代。弥生時代に生きた邪馬台国の卑弥呼は敵対する狗奴国に対抗する為、大陸の勢力の一つである魏に使者を送り、”漢委奴国王”の称号を得ました。見事な外交戦略である事は間違いありませんが、魏にもそうした方が良い理由があったのも事実。それほど大陸は乱れていたと考えるのが順当でしょう。

稲作はその時代の500年前に大陸から日本に伝わっていますので、卑弥呼の時代に大陸との盛んに交流があった事は間違いないですね!それはクニ同士だけでなく、民衆レベルでも!

そして進んだ大陸の最新技術である稲作を引っ提げて、多くの渡来人が混乱する大陸から日本に流れて来たことは想像に難くありません。

弥生時代の次は古墳時代ですが、時代が移行する過程で人口は90万人から540万人に大爆発したという説があります。勿論稲作により食糧事情が劇的に改善したという事もあるでしょうが、不安定な大陸からの大量の渡来人が来たのが一因とも言えます。

古墳時代を経て大和王権が大和朝廷として確立していく過程で、いかに渡来人が重要な役割を果たしたかは、飛鳥時代という古代史では周知の事実です。

”弥生時代は、渡来人によってもたらされた”と考えると、壱岐の原の辻遺跡や九州の吉野ケ里遺跡がその地政学的理由によりそこに存在する重要性は容易に想像出来ます、、、が、登呂遺跡はどうでしょう?九州から遠く離れ当時の先進地域である西日本からも遠い地になぜ弥生の3大遺跡と呼ばれるような社会が出来たのか?非常に興味のあるテーマですよね?

話は変わりますが、沼津の高尾山古墳は正に卑弥呼の時代の遺跡で、邪馬台国に敵対した狗奴国に与した有力者の墓と言われております。

弥生時代、卑弥呼が生きた時代の重要な遺跡が静岡県に2つもある!ってことは非常に興味深い事実ですね!

今後の更なる研究が楽しみです!